日本語の自動詞と他動詞
Hiro Marui
はじめに
自動詞と他動詞についてはいろいろな定義があり、辞書によっても異なった表記がされている。 a. 動作主から対象に向かったり、及んだりする動作を表す動詞。 b. 直接受け身になることができる動詞 c. 「を」格の目的語とる動詞 a. について 「自動詞と他動詞の別は、動詞の効果が及ぶのが動作主体であるのか、あるいは客体であるのかによる。」との考え方があり、「その学生は大学を卒業した。」の場合、動詞の動作の前後で変わるのは動作主体の「その学生」で、大学は変わらないから 「卒業する」は自動詞だと主張する。しかしながら、「見る」「写す」「好む」「学ぶ」「想像する」など動詞の効果が客体に及ばない他動詞はいくらでもある。 また、日本語では他動詞であっても、外国語では自動詞と他動詞の両方が存在するものがある。例えば、「見る」は英語では„to see”(他動詞)、„to look at”(自動詞)、ルーマニア語では„a vedea”(他動詞)、„a se uita la”(自動詞[再帰動詞])などがある。 また、「会う」や「卒業する」のように言語によって自動詞・他動詞が異なるものもある。「会う」は日本語では自動詞であるが、英語(to meet)やルーマニア語(a întâlni)では他動詞、「卒業する」は英語(to graduate from)では自動詞で、ルーマニア語(a absolvi)では他動詞である。 これらのことから、「動詞の効果が客体に及ぶかどうか」ということで自動詞・他動詞の判断をすることには疑問がある。 b. について 日本語においては、受け身になる自動詞があり、直接受身についてもいろいろな定義が存在する。例えば、「日本語文法ハンドブック」(スリーエーネットワーク)では、「能動文のヲ格やニ格の名詞句を受身文の主語にするタイプ:直接受身・・・能動文にない名詞句が受身文の主語になるタイプ:間接受身」と記載されている。 これによると、「吠えるー吠えられる」など直接受身になる自動詞がいくらでも存在することになる。
したがって、b. の定義では自動詞・他動詞の区別はできない。 c. について この定義には例外がないばかりでなく、自動詞・他動詞の区別が簡単明瞭で、教育上便利である。岩波書店の「国語辞典」や「基礎日本語文法」(くろしお出版)などはこの定義による。
1 「卒業する」は自動詞か
すでに述べたように「卒業する」は英語では自動詞、ルーマニア語では他動詞である。これに対して、日本語では「卒業する」を自動詞とする意見や辞書
(大修館書店の「明鏡国語辞典」など)がある。育達商業科技大学のホームページで内山和也氏は国立国語研究所の日本語教育指導参考書22を参考にして、「大学を卒業する。」の「大学」は場所で、
「卒業する」は自動詞としている。
ところが、「歩いて大学を出る」を「歩いて大学から出る」と言い換えることができるが、「大学を卒業する」を「大学から卒業する」と言い換えることはできない。 このことについて、三宅氏(1995)は、物理的な移動でない場合には「から」が使えないと結論づけている。
しかしながら、「組織を/から脱退した」「所属政党を/から離脱した」「グループを/から抜けた」「責任を/から逃れた」など抽象的存在でも「から」を使うことができる。
したがって、「物理的でない」ことが「から」を使えない理由ではない。
「大学を卒業する」ことは「数年間の総合的な大学の教育課程を修める」意味であり、この場合の「大学」は場所や離脱点の意味ではない。
修士課程や博士課程は「卒業」ではなく、「修了」という。「修士課程を修了する」場合「修士課程」が場所・離脱点で「修了する」が自動詞だというのには無理がある。
修士課程は勉強して習得する内容を表し、「修了する」はその課程の勉強をして「その内容を習得する」ことを意味する。このことから、「卒業する」は離脱する意味ではなく、
「修める」「習得する」など「内容を身につける」意味だと思われる。
「卒業する」を他動詞とする辞書には岩波書店の「国語辞典」、旺文社の「国語辞典」、三省堂の「国語辞典」、福武書店の「国語辞典」などがあり、
自動詞とする辞書には、「明鏡国語辞典」、三省堂の「小辞林」などがある。「卒業する」を自動詞とすることには異論が少なくない。したがって、
外国人の学習者向けの例文として示すのはいかがなものかと思われる。
「現代日本語文法2」(日本語記述文法研究会)では、補語として働きかけられる対象をとるものを他動詞、とらないものを自動詞とし、典型的な他動詞は[が、を]文型をとるが、
[が、に]文型をとるものもあるとして、「犬が僕にかみついた」を例文として示している。
また、三上章は能動詞と所動詞という分類を立て、能動詞で「まともな意味の受動態を作ることのできるものを他動詞とする。
三上の考え方でも「ほれる」「かみつく」など「を」格をとらない他動詞が存在することになる。
しかし、これには問題がある。もし、 「AがBに飛びつく」(自動詞)
→ 「BがAに飛びつかれる」 「AがBに飛びかかる」(自動詞)
→ 「BがAに飛びかかられる」 「AがBに絡む」(自動詞)
→ 「BがAに絡まれる」 「AがBに絡みつく」(自動詞)
→ 「BがAに絡みつかれる」 「AがBにへばりつく」(自動詞)
→ 「BがAにへばりつかれる」 「AがBに抱きつく」(自動詞)
→ 「BがAに抱きつかれる」 「AがBにまつわりつく」(自動詞)
→ 「BがAにまつわりつかれる」 次の動詞なども同様である。「寄り添う、反抗する、そむく、逆らう、はむかう、いたずらする、意地悪する、影響する、期待する、抗議する、反対する、惚れる、追い付く、 挑戦する、取って代わる、飽きる、飽き飽きする、親しむ、注目する」 つまり、直接受身の定義がいずれの場合でも「に」格の他動詞というものは存在しない。
自動詞文では、対象に「を」格は使えない。しかし、場所、経路、位置関係、時点、期間、取り巻く状況などを示す場合には「を」格を用いる。これらは動作の対象ではない。
@
移動する場所・経路:「道を歩く」「公園を走る」「 空を飛ぶ」「橋を渡る」 A 動作・作用の行われる時間・期間:「この一年を無事に生きてきた」
B
動作の出発点・分離点・経過点:「故郷を離れる」「バスを降りる」「家を出る」「2時を10分過ぎる」 C
位置関係:「先頭を走る」「最後を歩く」 D
取り巻く状況:「嵐の中を歩く」 「日本語教師のページ」(ARC Academy)では、「『甘える・ほえる・噛みつく・あこがれる』などは『ニ格』補足語を必須とする他動詞である。」と記載し、 「日本語教師の広場」(日本語教師を応援するTomo塾)では、「かみつく」「とびかかる」「会う」「賛成する」「反対する」などを「に格」をとる他動詞としているが、 このことには疑問がある。「かむ」は他動詞で「を」格の目的語をとるが、「かみつく」では「に」格に変わる。これは複合動詞「かみつく」の後項要素「つく」が到達点に「に」格をとるからである。「抱きつく」「飛びつく」「からみつく」「まとわりつく」なども同じである。「Aにかみつく」の場合のAは目標点・到達点で、 意味としては「かむ動作がAに到達する」ということである。したがって、「に」格を取る他動詞と主張されているものは、直接目的ではなく目標や到達点に 「に」格をとるのであり、他動詞ではなく自動詞とするのが合理的であろう。
「訪れる」はもともと自動詞だったこともあり、「人を訪れる」という言い方に違和感を持つ人も一部にいる。たとえば、三省堂や福武書店の辞典には「訪れる」は
自動詞とあり、小学館の類語例解辞典には『「彼を訪れる」という言い方はせず、「彼の家を訪れる」の形になる。」とはっきり書かれている。
ところが、大修館書店の「明鏡国語辞典」、小学館の「大辞泉」、岩波書店の「広辞苑」など他の多くの辞典では自他動詞とされており、
「『訪れる』は人やある場所をたずねる。」などとなっている。実際に使われている使用例の多さなどを考えれば、自他動詞と考えるのが妥当であろう。
三省堂の「新明解国語辞典」、岩波書店の「広辞苑」、旺文社の「国語辞典」などでは「頼る」を自動詞としている。ところが、 「AはBに頼る」は「AはBに何かを頼る」と言うことができるので、「頼る」何かが存在すると考えられる。 つまり、ものに「を」を使い、人に「に」を使うと考えられる。また、「AはBを頼る」という表現もある。 これらのことから、「頼る」は他動詞だと考えられる。岩波書店の「国語辞典」、三省堂の「国語辞典」、大修館書店の「明鏡国語辞典」などでは 「頼る」を他動詞としている。 |